西園寺行子は島根県の依託職員かい!!


こんばんわ。ぺこりん八百万神が集う国。神々の里出雲の国の西園寺です。
日本人の神さまは、いっぱいですね。目に見えない人間を超えた力を神とあがめることもあるが、人を神にあがめることもある。
そして、祟るのも沈める為に、神にしちゃえってこともある。
韓国では、神は『はな』1であり始まりをあらわすことばで、唯一無二の神様です。
さて、話はもどりますが、10世紀の貴族 源 為憲が「雲太、和二、京三」といって、公家の弟子達に覚えさせています。
それは、なんですと??出雲太郎=出雲大社 大和二郎=東大寺大仏殿 京三郎=平安京大極殿当時この三つが日本で一番巨大な建造物で、それを教える富士山の高さは、みななろう3776mみたいに、教えていたらしい。
しかし、あの時代 何故出雲なのか?謎でしょう。
      次ぎに続く

「つづく」なんて書いて次が書き込めず

西園寺です。こんにちわ
全国的には、10月は神無月 出雲は旧暦の10月は神在月(かみありずき)全国の神々は何しに出雲に集まるのか?
いろいろな諸説が地域にあります。
酒造り、交流、縁結び。何故に出雲であったかが、謎です。
本当に謎です。
どの時代にもこのへんぴな出雲が登場します。
しかも、島流しといえば、「佐渡」と島根県「隠岐」島根と言う県名。
島の根っこというのも、意味があると、思います。
みなさま、どう、推理されますか?






西園寺行子と小泉八雲


「日本面影」ラフカディオハーンこと、「小泉八雲」私とどうゆう接点があるのでしょうか、
実は、目と鼻の先の御近所なんです。
松江では、ヘルンさんの愛唱で呼ばれています。ハーンの英語よみのつづりをヘルンと発音してしまい。ハーンもそんな松江の人を喜んでうけいれて、あえてその名で呼ばせます。
お手伝いに武家の出戻りの娘「せつ」後に妻になる。がやってきます。
せつさんは賢いひとでした。
英語をひとつひとつ覚えていきます。
そしてヘルンはやたらお話がすきでした。
そう、このカオスの世界のように、不思議なことや、かなしいはなし、怪談話し。
せつさんはここらへんのそんなはなしをたくさんしっていました。
日本の話もよくしっていました。
子供のようにねだるヘルンに毎晩たくさんはなしてあげます。
「小豆とぎ橋」の話は、西園寺の家から東に歩いて150mだ。
譜門院(ふもんいん)の前の橋に夜な夜な小豆をとぐ音が聞こえる。
けしてたちどまったり、声をかけたりしてはいけない。
ところが、とある武士が(名前はわすれたが名前や墓までしっかりあり、取材にヘルンはいったりしてる)「ないをいちょうだ。わしがたしかめてやるわい」と意気込んででかけて。
音を聞いても、立ちどまり「誰ぞ!悪さをするな」といきまき「恐いことも、ないわ」と家にかえると、自分の子供の首がなくなっていた。
今はコンクリートのただの赤いらんかんの小さい橋だ。
観光客が数多く、気の毒に見にくるが、現実はこんなもんだ。
当たり前にやたら車がおおい。
わたしも、毎日通る。しかし、橋に面した。「ふもんいん」の白壁はうきあがってくる。
しみがある。私はいつもきになっていたが、15年まえくらいに、眩しい白に塗り替えたが、あっさりすぐに同じしみがでてきた。
わたしはそっちの方がきになってしょうがない。

小泉八雲「月照寺」 

西園寺さん家から西北に車で、5分のところに。「月照寺」(げっしょうじ)が、あります。
国の史跡に指定されています。
まあ、寺ですから、誰の寺か申します、松江城代々の藩主さまです。
ただの墓ではありません。
りっぱですよ。各々に墓の入り口には、唐門に立派な彫刻がほどこしてある、
鐘楼もあきさせん。
灯籠もいろいろあり、昔ながらの池があったり、藩主たちが静かに心やすめれるように、紫陽花や菖蒲がたくさん植え込みされています。
季節には観光客の目をなごませてます。
小泉八雲の随筆に。登場するのが、巨大亀形の寿藏碑があります。
夜な夜な、城下を深夜に徘徊する、巨大亀を松江城の武士が退治した。
話しです。
松江の武家屋敷の周りには(つまり西園寺の家の周りのことだ!!)暗くなると巨大亀が徘徊し、小豆を洗う妖怪がでて、きわめつけが、夫婦仲のよかった武士の妻が病気でなくなるとき、「絶対に後妻をもらわないで、墓は貴方と、いつも一緒にいれるように、庭に作ってね」と約束させて、死んだ。
夫も良い人で約束を守っていましたが、しかし、再婚してしまい。当然出る。
前妻の〜(mToT)/~~~ウラメシヤー...約束を違えた夫をとりころせばいいのに、新しい妻をとり殺しました。
悲惨なのだ。
八雲も同じ空気を感じ昔に思いをはせました。
そうそう。月照寺の亀です。子供のころはじめてみた時、びっくりした。
あの話の亀がこんなに巨大だとは、「ガメラじゃん」
みんなで首や甲羅に乗ってあそんだが、4mくらいあるし、退治されたとき甲羅に乗せられた。
石は、四角いが長さは3mある。
そんで、何か字が彫ってあった。
これじゃ動けんよな。と、子供ごころに本当にあった江戸時代の話と思っていました。
しかし、西園寺の月照寺の思いではそれだけでない。
友達が来た時に、ふたりで、遊びにいきました。
「いちようサ。ここ、墓だから、案外写ったりして、(≧m≦)ぷっ!貴方の知らない世界」
遊びほうけて、写真をとりまくりましたが、現像してみりと、写ってました。
まじ!?まじです。かわらの所に小さい顔が「こわ〜〜〜〜〜い」
友達は「でも、悪い物ではない感じする」何故そんな事が言える。
断言できる。
「写真もネガもやくんだ〜〜恐いんだよ〜〜〜〜」と焼いてしまいましまいました。
今考えると惜しい事をそた。
TVに投書すればよかったのに 
         くちおしや〜〜〜〜月照寺







島根県大東町須賀「須我神社」


この神社は日本ではじめて出来た宮です。
祭神は須佐之男。奇稲田比売、清之湯山主三名狭漏彦八島野命(誰やねん)
古事記(712年)八岐大蛇(やわたのおろち)をスサノウが倒したあと、この地に来て「吾此地に来まし、我が心 須賀 須賀し」といってこの地に宮をたてた。
そこで、「八雲立つ出雲八垣つくる。その八重垣を」とあの有名な和歌を詠んだ
これが、出雲の国名の紀元です。
また、31文字(みそひともじ)の和歌の発祥の地です。神社から、2kmあがると、八雲山があります

亀石

  島根県岩見地方にある「大森銀山」に行ってきました。
そこの城上神社で出会った「亀石」の事を書きたいと思います。
亀石は1m位か、それ以上ある、亀が甲羅から顔を出している格好の巨大な石です。
亀石物語の始まり始まり (^-^)//ぱちぱち
[時は、今から1000年位前の延喜年間。城上神社が仁摩の馬路町の城上山にあったこときに、珍しい「貝の化石のある石」と「海亀の姿の石」が奉納されました。
時が遷り、神社が愛宕山に遷座した時は、2つの石は一緒に運ばれましたが、天正年代に現在地に遷座の時、亀石を運ぶのを忘れてしまいました。( ┰_┰) シクシク
亀石は「自分の甲(亀甲)は、城上神社の紋所だ、行かなければ」と、山を下ったのですが、自らの重さに山の麓の川底へ沈んでしまい、どうする事も出来なくなってしまいました。
それからは、川岸を通ると川の中から不思議な音が聞こえるようになり、静かな夜だと、小豆を研ぐような音が聞こえてくるようになりました。
物好きな人々が石を道ばたまで上げてみたら、亀の形をしていました。
石は「小豆石」の名で、大正時代まで道端に置かれていました。
ところが、ある夜、敬神家の田中氏の夢に石が出てきて、事の次第を打ち明け、城上神社の境内に上げて欲しいと頼んだのです。
そこで田中氏は早速宮司に告げ、石は現在の所に落ち着いたのでした。
おもしろい話でした。大正時代まで、道端にいたのかと、なでなでしてしまいましたよ。
ここの神社は大国主命を祀っています。家紋は勿論亀甲ですう。




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島根県美保関神社


 美保関はえびすさんを祭ってります。
ではえびすさんってどんな人!?こんなかたです。
出雲神話「国譲り」
日本の神は天津神(天上の神)と国津神(大地の神)に分かれ、大地の神の代表が大国主命である。
大国主命は国を治めていたが、天上の神の使い(武甕槌神)が出雲の国にきて、大国主命に「この国を天津神に献上せよ」と伝えた。
嫌だ!!と思った。
大国主命は、自分の一存では返事ができないと言って、美保埼で漁をしている我が子の事代主命(恵比寿さん)に判断をまかせた。
事代主命は大国主命に国の譲渡を勧めると、乗ってきた船を踏み傾け、呪いの手打ちをした。
すると船はたちまち青い柴の垣根に変わり、事代主命はその中に隠れて再び姿を現さなかった。
事代主命の弟建御方神は、国譲りに反対したが、武甕槌神との力競べに負け諏訪湖まで逃げて降伏してしまった。
そのため武甕槌神は再び大国主命に国譲りについて問うと、
(/TДT)/あうぅ・・・・大国主命は自分の住まいとして立派な神殿を建ててもらうことと引き換えに国譲りを承諾した。
その神殿が出雲大社の始まりだともいわれる。

では、えびすさん個人の子供のころよりきかされていた。神話
「エビス様とニワトリ」はじまりはじまり
エビス様は美保の対岸にある東出雲町(黄泉の国があるともいわれてるんだよ)のミシマミゾクイヒメのもとに夜な夜な通われ、明け方になると美保の社にお帰りになっていました。
ある夜ニワトリが間違えて夜明け前に鳴いたため、あわてて帰路につかれました。
ところが途中で船のカイを海中に落としてしまい、足で船をこいでいたところワニザメに足をかまれてしまったと伝えられています。
それ以来、この地では鶏肉、鶏卵を食べず、ニワトリを飼うこともご法度とされたということです。
すごく小さい子供の私には面白くちょっとエッチでしかも、あまりに地元でかつ昔はワニがいっぱいいたんだと、頭のなかで「神さんってどんくさいな」と人間くささを感じさせた、最初の神様でした。
しかし、友達のお母さまが美保関神社の出の方で、いっさい鳥肉を召し上がらない事を聞いて。
|||||/( ̄ロ ̄;)\||||||| まじ〜〜と驚いたものです。
いろいろ、興味深いです。山陰路







歴史に名高い島根県加賀。日本海からの神がみ


加賀の潜戸(くげど)は小泉八雲が自分の目でみて、たいそう感動して作品にのこしています。
まず、加賀神埼は佐太大神の生誕の地です。
「洞窟で佐太大神が生まれる時、弓矢が失せた。母神のキサカ姫(支佐加比売命)は「失せた矢出て来い」と願いました。
すると、角の弓矢が、次に金の弓矢が流れきた。
キサカ姫は金の弓矢を取り、それで洞窟を射て貫通させた。」と言われる。
加賀郷の地名の起源は「キサカ姫が金の弓矢で射た時、光り輝いた。それで加加という」です。
神埼には掟があり「人がこの洞窟の辺を行く時必ず声とどろかして行く。
もし密かに行けば、神現れてつむじ風が起こり、行く船必ず覆る」
と記されています。加賀は佐太大神が支配する聖地なのです。
ここにある洞窟は「加賀の潜戸」と呼ばれています。
旧潜戸は高さ30メートル、奥行き10メートルで無数の賽の河原の積石がある。
北の新潜戸は、キサカ姫が射抜いた三方の入り口がつながる長さ200メートルの巨大なもの。グラスボートで通り抜け出来る。
┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ〜
私は、恐山にいっても、びっくりしないと思います。
何故なら、子供の時に、「ここには、あの世とこの世の境」が本当にあるだ〜〜
わーん恐いよ。恐いよ。もう2度といきたくないよ〜〜(/TДT)/あうぅ・・・・
加賀の潜戸は、いってしまってまった、者を忘れられない人達の思いがつまった。空間でした。
子供心に恐ろしくそう思いました。
加賀の先には、猿田彦を祀っている所もあります。
我が家から、車で20分かかるかなぁ〜〜〜近いです。

出雲の神が生まれた洞窟 ・ 加賀の潜戸「2」

『出雲国風土記』
洞窟で生まれた佐田大神は、今では、隣町の鹿島町の佐田神社に祭られています。
神名火山(かんなびやま)の朝日山の麓にある立派な神社です。
出雲の神 といえば、出雲大社に祭られている大国主命(おおくにぬしのみこと)が有名です。
古事記・日本書紀では、大国主は、大和朝廷によって征服された神とされています。
しかし、出雲独自の神話を集めた『出雲国風土記』に登場する佐田大神の伝承の方が、より古い起源をもつのではないでしょうか。
大国主や、その先祖の素戔鳴命(すさのおのみこと。大国主は「素戔鳴の子」とも、「5世の孫」とも言われる)についての伝承は、金属器を駆使する新羅渡来の豪族の事歴を反映した神話だと思われます。
一方、佐田大神は、それ以前から、この出雲の地に住んでいた人々によって祭られた神であり、その人たちの信仰や、生活にまつわる伝承が『出雲国風土記』によって語られているのだと思います。







本当に謎の麻須羅神 


佐太大神は、神魂命の御子・枳佐加比売命の御子。
加賀の神埼で出産の時、弓矢がなくなった。
枳佐加比売命が「この御子が、麻須羅神の御子ならば、弓矢よ出て来い」と云ったところ、水の中から角の弓矢が流れてきた。
御子神に見せ、「これではない」と投げ捨てる。
すると今度は金の弓矢が流れてきた。
枳佐加比売命は、それを手にとり「暗い窟であることよ」と云って、射放つと、窟が貫通し光輝いたという。
この「麻須羅神」こそが、「佐太大神」であるかもしれない。
従来、当社が「秘説」としてきた主祭神を、明治になって、松江藩から「猿田彦神」と明示せよと指示があった。
折衝の末、「佐太御子大神」と明示することとなった。
となれば、もうかってに想像してたもれ〜〜という事です。
天皇家とはべつに、海からの神をむかえていた豪族
大陸に向かい点々と御神体(蛇)をむかえるところが、日本海ぞいにある。
もちろん、出雲大社この儀式はしている。
「日ノ崎」に向かう道には、点々と神社がある。
まず、御神体を迎える神社。次はスサノウ上にアマテラス
オイオイ、混乱をするだろうと、思うが。そこに立って見てみると まっすぐ、大陸にむかって、開けている。
ここから、始ったのあろう。
頭ではなく感じることができる。
しかし、謎は謎である。

しかし、どの時代も婚儀により結束し、まじっていく。




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出雲の国神在月


陰暦の十月のことを神無月といいます。
これは全国の神々が出雲の国に集まられ、神々が留守になられるからです。
反対に出雲では、神々がお集まりになられるので「神在月(または神有月)」といいます。
平成16年は11月12日が陰暦の10月1日に相当しますので、出雲大社では11月21日(陰暦10月10日)に神迎祭をお仕えし、翌日より7日間、神在祭をお仕えします。
なぜ出雲に、なんのためにお集まりになるのでしょうか。
『日本書紀』に大国主大神が天照御大神に「国譲り」をなさった時、「私の治めていますこの現世(うつしよ)の政事(まつりごと)は、皇孫(すめみま)あなたがお治めください。
これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と申された記録があります。
この「幽れたる神事」とは、目には見えない縁(えん)を結ぶことであり、それを治めるということはその「幽れたる神事」について全国から神々をお迎えして会議をなさるのだという信仰が生まれたと考えられます。
しかし、いろいろな諸説が地域にあります。
多くは縁結びの相談のためということになっており、他には酒作りや、交易をしにくる神もおいでになります。
考えられるのはただ一つ、出雲王国の影響力が絶大的なものであったからではなかったのでしょうか?
何が諸国を出雲に惹き付けたのか。
出雲の航海・造船技術はどうやら他の地域と比べてもかなり優れていたようです。
逆に言えば航海・造船技術に長けていなければ、いくら豊富な資源とその製錬技術、文明をもたらす国と近いという地理的利点等があったとしても、地上の交通はけもの道ばかりという当時の交通事情から考えれば、航海・造船技術の基盤の上にこそ、出雲王国は成立するかもしれませんね。
その航海・造船技術は精巧を極め、ついにはきわどいながら文明にまで達して、それが青銅器の祭り。
よってこれは農耕信仰ではなく(後にその要素が入ったかもしれないが)、航海の祭りに関係したものであったろうと考える。青銅文化説があります。
本来、青銅器(銅剣、銅鐸、銅矛)は武器の要素と共に、海上航海の道具として用いられたかもしれません。
おそらくその航海技術は幾度もの習練を必要とするもので、航海技術は一朝一夕に身につけられるものではなく、常に技術は向上していかなければならない。
技術の伝達も確実に行わなければならない。
そのための航海技術の最も優れていた国の一つであったろう出雲がその航海技術を祭りにまで引き上げて、年に一回、ちょうど冬支度に入り長距離航海ができなくなる10月あたりに全国の航海人達を集めて航海・造船技術の伝達は勿論、物産の交換、各地の情報交換を行ったのではと、いう面白い考えがあります。
そしてそのときの習わしが今日まで残り、神在月伝承として広まったと、考える説
この青銅器文化は古墳時代に入ると共に跡形もなく消えてしまいます。
出雲に集まる儀式は完全に途絶えます。そしてその跡には神在月信仰だけが残るわけです。
ただ青銅器の祭りが関係することを匂わせる行事は残っております。
それは竜神信仰です。
「(山陰特有の民俗−竜神さんのすべて−上田常一著 園山書店)より
出雲では神在月の頃に稲佐の浜にあがってくる海蛇を神の使いとして信仰する。これが竜神信仰である。
この海蛇はセグロウミヘビといい、背が黒色をしていることから名づけられたものである。
ここで注目して欲しいのは、セグロウミヘビの脇腹の色である。
金色をしているのである。
このことは青銅器のイメージに合わせてこの海蛇が選ばれたのではないかと考えられる。
御諸の山の神は蛇の化身であったと言われている。
御諸の山の神といえば青銅器の航海技術を伝えた人物と解釈することもでき、これもセグロウミヘビを祭る竜神信仰、そして青銅器祭祀を暗示しているような気がするのである。」
どうも、いろいろな説はあっても、出雲になんらかの人が沢山集まる事だけは本当のようです。
ただ、どんな人が何の為に集まったか時代によってかわり、謎を含でいてこそ、出雲の神秘が語り継がれたのでしょう。
みなさまも、夜の闇のなかの、出雲に思いをどうぞはせてください







西園寺の神話「イザナギとイザナミ」


出雲にはいや、私のすんでる地方に黄泉の国(横田)黄泉の国と現世の境の東出雲のひらさかが普通にあったりするのだ。
そこで、みんながしってるお話しのおさらいなんぞ書いてみました。
  古事記「イザナギとイザナミ」
イザナギ(男)と女の神様イザナミの国造りのはじまりです。
聖書でいう「混沌」世界のか光りあれのごくとく、イザナギとイザナミが槍の先で海をかきまぜると、するとしずくがポタポタ落ちて島が生まれます。
この島に2人の神様が下りて、九州・四国・・・と次々島を作って今の日本列島が出来ることに、
ある日イザナギ゙が、「あなたの体はどげなふうにできてちょうかや?」と聞くと、イザナミが「私の体には一つ足りないとこがあ〜わね」という。
で、イザナギは「私の体は一つ余っちょうとこが、あるけん、それをあわせてみらこい」
そしてイザナミが( ̄▽ ̄)ゞラジャと夫婦のなりました。
その後の2人には、イザナミから誘った時に、ヒルコていう骨のない子を産まれた2人は悲しみ、女であるイザナミが先に男のイザナギを誘ったからだと反省し次ぎから良い子を次々生み増やしている途中で、イザナミが死亡。
(|||_|||)ガビーン
「イザナミに会いたい!」イザナギ黄泉の国へ黄泉の国へ会いに行くことに。
だけど、イザナミは「私は黄泉の国の食べ物を食てしまったけん。戻れんわ」と、寂しげに言うのです。
悲しむイザナギ。
イザナミは、「黄泉の国の神様に相談するけん、待っちょってね。その間絶対覗かんでごしないよ!」
が、待ってど、くらせど帰ってこないので妻にイザナミは約束を破って覗いてしまう。
すると、そこにはウジのわいたイザナミの死体がありました。
恋い女房そんな姿だったの、(ノ≧ロ)ノ<嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌
怖くなったイザナギは逃げ出す。
ハッアァ!!(`ロ´;)恥をかかされ怒ったイザナミ。
怒って後を追いかけました!
間一髪で外に出たイザナギは、巨大な岩で黄泉の国の入り口を塞いだのです。
怒ったイザナミは、「アンタの国の人間を1日千人殺してやるけんね!」と、( ゜Д゜)<呪呪呪呪呪呪呪呪呪
するとイザナギ、「そげなこというな!!こっちは1日千五百人産んじやぁわ!」大喧嘩
これが神話による「人間の生死の始まり」の壮大な夫婦喧嘩
っかぁ〜〜イザナギどうよ。ひどいよね。
出雲の男はその後どうなるか、こう御期待







縄文人と弥生人は一緒なのか?


他のHPの書き込み弥生人の寿命は28年と書いてあったのをみて、昔から疑問に思っている事を書いてみます。
弥生人は縄文人より背がいきなり、たかくなり骨格がかわったのは、食生活がよくなったからで、身長は遺伝ではなく、食生活と環境でかわるのらしい。とあったが!そうかぁ〜〜?
私は昔から土器の形が不思議でしょうがなかった。
縄文土器は薄くて紋様が美しくって好きだ。色も黒い。
弥生土器になると、厚くて装飾や紋様はいっさいなくなり機能的に、なったといわれてる。
個性に共有する点が私には感じれない
どうかなぁ〜〜どうよ。
まったくヾ( ̄o ̄;)チガウッテバ、、、だろう
んじゃ、弥生人!!少しは絵を書けよ。進歩したら、
土偶はどうなの、あの芸術的センス。
訴えたいものが全面にてでいる。
弥生の埴輪とは。のっぺり〜〜(/・0・) やぁ〜「はにわ」です。
鼻の形がちがねぇ?
28歳の平均寿命は最近鳥取からでた骨から、わかってきた。女は20歳
食生活も稲作、猪、どんぐり、しいのみ、魚とバラエティにとんでいた。
土器を重ねて蒸し器をつくっていたので、いろいろたべれたようだ。松江のほうは、シジミをたべてる。小動物の骨もでている。
何故28年なんだろう。戦いが凄くふえてる。
女性は子供をうんだので早かったかもしれない。
でも、縄文人と弥生人は違うと私は激しく勝手に思っています。




 

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