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京都人と鬼門


                   匿名希望

京都は、魔界都市・・・よー言はれてる言葉でおますが。
ほんまに、そうでっしゃろか。
雑誌、テレビが、面白おかしゅうに、報じているだけでは・・・
大体が、鬼門と裏鬼門・・もちろん、この二つが必ず一組になっていなければ、あかんのどす。

平安京が出来てから、都の正面玄関は、「羅生門」ざんした。
いろんな人々や、魑魅魍魎の類も、この門から入ってくると考えられたので、 魑魅魍魎を封じるために、東寺、西寺が作られました。
更に、四方(東西南北)の、壁をよじ登って、入ってきては困るので、「大将軍」をも設けたざんす。
ほんま、昔の人は、念には、念を入れはったんどすなぁ〜。

大体、鬼門ちゅうのは、もともと鬼の通り道ざんすから、これを防ぐなんて、所詮は、無茶ちゅうか、無理な話ざんす。
入ってきた、鬼には、さっさと、出ていってもらうために、裏鬼門が有るざんすよ。
結構、合理的な考え方ざんすね。
鬼門に、「猿田彦」を祭るのは、鬼を裏鬼門へ誘い出しているんでしょうな。
京の町を歩いていると、この「猿田彦」結構見ます。

京都人は、鬼門を忌み嫌うのでは無く、このように、合理的に考えて、対処してるざんす。
決して、魔界都市なんかじゃ、無いざんすよ。
京都を魔界都市と呼ぶなら、江戸や、鎌倉もそうざんす。
いや、江戸の方が、もっと、実際的な魔界都市かも。
ご清聴感謝ざんす^^






不思議対談


てらどん
   「さ〜て、一体何を書かしてもらいましょ。
今の旬は、新選組どっしゃろか。
それか、京都不思議話。。。。
和蘭と、ベルギーの幽霊話も有りますんやが。
リクエストにお応えしまっせ(笑)」
ペン
   「オヤッ?お久しぶりでございますなぁ 何時お戻りで?
ベルギーの幽霊さんも聞いてみたいおすえッ
京都も宜しいおすなぁ・・

新撰組はその後でッしゃろか・・」

てらどん
   その1  深泥ヶ池の不思議な発光体
その2  おっかけてくる足音
その3  一条戻り橋架け替えの時に出てきた人形
その4  貴船神社の丑三参り
こんなんあおますけどf^^;)」


ペン
   「そうでんなぁ 
3と4は多分知っていると思いますんや
順番にお話願いましょうか
なんやワクワクしますなぁ」


てらどん
  ほなお話しましょか
深泥ヶ池の発光体でおますが。。。
梅雨が明ける時期の雨上がりで、大体深夜。
池の淵に、なんや白い感じの発光体が、ぼんやり、浮かんでるように 見えたりする場合があります。
今でも、たまに、見たちゅうお人がおられますが。
一体、なんざんしょ・・・プラズマざんすかね、やはり!」


ペン
「微生物なんとちゃいまっかぁ?等と申したらな〜んも面白い事おへんえ
雨模様の夜にこの世に思いを残してはるお方が成仏出来へんで彷徨ってるんとちゃいますやろか
それとも平安京の昔から土地に留まっていらはる神が現れて何かを伝え様としているとか・・・
イヤァ〜〜恐ろしおすなぁ!」


てらどん
「次のお話は東山区に一角とだけ申し上げておきます(影響があるので)
時間は、大体1時〜3時、時として4時頃。
下り阪を、ひょこひょこ降りて行きますと、すぐ後ろから、カッ〜ン、カッ〜ンと言う、石畳を、下駄先で蹴るような音が、後ろから追っかけてきます。
こちらが止まると、2度3度音がして、ピタッと鳴り止み、
また歩き出すと、少し遅れて、また同じ音が。。。。。
坂道を降りて、大きな通りを通り過ぎ、ふと気づくと、そこは、有る、因縁話の有る祠が。
この祠を通り過ぎると、音は鳴り止みます。
今から、17〜8年前のお話です。」


ペン
    なんとなく場所が・・・
イヤイヤ何も申しますまい
足音が付いて来ると言う事はそのお方に足が有ると言う事でんな
東京の薬缶坂にも同じような話が有りまっせ
こちらは狐サンがばかしていら張るようですけんど・・
その祠が気がかりでんなぁ。








大江山探検記   byしらゆき


少し古い話だが、昨年のゴールデンウィークにかねてから行きたかった京都の大江山に行ってきた。
大江山と言えば源頼光の酒呑童子の伝説で有名で、鬼が町のシンボルになっており、「日本の鬼の交流博物館」と言う施設もあり、妖怪好きの私としては以前から行きたかった所なのだ。
大江山の酒呑童子の伝説と言うのは、むかし平安の頃、大江山に酒呑童子を首領とする鬼が住み着いて近国を荒らしまわり、遂には都にまで現れて、多くの美女をさらっていった。
高貴の身分の姫たちまでさらわれるようになり、帝も心配して源頼光に討つように命じた。
源頼光は、藤原保昌(和泉式部の夫)のほか、家臣の四天王の渡辺綱・碓井貞光・卜部季武・坂田金時(金太郎)を呼び寄せ、まず、住吉明神・岩清水八幡宮・熊野権現の三社にお参りして加護を願ってから山伏の姿に身を変えて大江山に向かった。
途中に、三人の翁に出会い、神便鬼毒の酒と言う、人が飲むと元気が出るが鬼が飲むと動けなくなる酒を授けられ、鬼たちをこの酒で酔わせて退治しろと言う、三人の翁は住吉・岩清水・熊野の神々あったのだ。
やがて大江山に着くと河原で女が血のついた着物を洗っている。
事情を聞くと女もさらわれて来た娘で、事情を聞いて娘に案内させ、鬼の館に着くと、道に迷った山伏として酒呑童子に案内をこうて館に入り込んだ。
やがて、鬼の酒席に招かれたが出てくるのは人の血の酒に人の肉。
それでも怪しまれないようにその場をしのぐと、鬼たちにも神便鬼毒の酒を飲ませて眠り込んで動けない所を苦労しながらもなんとか退治して周り、捕らわれていた姫たちも無事に救い出して都に連れて帰ったと言うお話なのだ。

さて、JRの「京都駅」から山陰本線で「福知山駅」まで行き、そこで北近畿タンゴ鉄道に乗り換えて「大江駅」で降りると、駅にあるお土産屋さんではいろいろな鬼の品物が売られている。
駅の建物から出ると前には「鬼瓦公園」があり、鬼の像や鬼瓦などが飾られている。
そこから町営バスに乗って終点の「大江山の家」まで向かう、途中にも様々な鬼に関する史跡とかあるようだが、今回は日帰りだったので寄り道している時間が無い。
終点の「大江山の家」に着くと、すぐそこに「日本の鬼の交流博物館」があり、巨大な鬼瓦が目印に建てられている。
今回の目的は、この「鬼の交流博物館」と大江山に登って「鬼嶽稲荷神社」に行く事だったが、大江山に登るのにどれだけかかるか判らないので、先に大江山に登ってから、後から博物館を見物することにした。
この周辺にはキャンプ場や温泉、テニス場などの施設もあるようだ。
大江山に向かって山を登って行くと、この辺りにはまだ桜が咲いていたりする
また、静かな所で自然に恵まれているので、あちこちから鳥の声が聞こえて心を和ませてくれる、特にウグイスが多いのか、ウグイスの声がよく聞こえる気がする。
また、所々に鬼の人形が置かれていて、案内の代わりになっている辺りが、鬼の町らしい所だ。
たまに車が通るくらいで、山を登っているのは私くらいか。
良いお天気で太陽が暑いくらいだが、木陰に入ると涼しい風が吹いて気持が良い。
途中にあった池は、透き通るくらいに水がきれいで底まで見えている。
また、途中の山から水が流れてる所では、あちこちでカエルらしい鳴き声がする。
こんな山奥でのカエルの声でかなり驚いたが、もしも夜中とかに歩いてて聞こえたらかなり不気味だと思う。
登り始めて1時間あまりで、ようやく大江山の八合目にある「鬼嶽稲荷神社」にたどり着いた。
もともとは山頂にあったらしいのだが、八合目に写してお稲荷さんを勧進してきたそうだ。
鬼の神社らしく、本殿に鬼の面なども掲げられてある。
また、この神社の前が開けていて周囲の山並みの展望が楽しめて素晴らしいパノラマになっている。
ここから、大江山の山頂に登れるのだが、疲れていたのでここまでにしておいた。
代わりに、ここから山道を下っていくと「鬼の洞窟」と言うのがあるようなので見に行く事にした。
獣道のような険しい道を下って行くと、大きな岩があり、そこが洞窟のように洞穴になっている
しかし、四畳半ほどの広さしかないので鬼どころか人も住めないだろう。
そこから、また道を登って神社に戻ると、山を下って鬼の交流博物館に戻ることにした。
下りの道は登りに比べて楽に「大江山の家」まで降りられたが、時間は昼になっていた。
バスの時間を確認に行くと、あと30分ほどでバスが来て、その後は2時間後になっている。
何とか30分で鬼の交流博物館を見てバスに乗ろうと「日本の鬼の交流博物館」に向かうと、どこも閉まっていて入る所が無い。
どうしたのかと思っていると、何と月曜日は休館日と書いてあるのに気がついた。
月曜なので閉まっているのだ。
悔やんで見ても事前に調べなかった自分が悪い。
何のために来たのだろうと思ってもどうにもならないので、大江山に登れただけでも良しとして帰りのバスを待つことにした。
やがて、バスに乗って「大江駅」に着くと、帰りの電車まで1時間以上ある。
お土産を買ったり、酒呑童子の本を買ったりして時間を潰し、電車が来てから京都に戻った。
身体は疲れて博物館も見れなかったが、自然を満喫できて楽しい一日だった。
さて、改めて考えて見て、京都の市街から遠く離れた大江山から酒呑童子が襲いに来るのは距離的にも無理があるのではないだろうか?
確かに大江山は鬼(その正体は別として)が住んでいてもおかしくない所だが、地元の町や村を襲うのならともかく、京都まで手を伸ばすのは腑に落ちない。
そこで、酒呑童子がいた大江山は、京都の郊外にある老ノ坂だと言う説もある。
その辺りは大枝(おおえ)と言う地名もあり、老ノ坂は京都から亀岡に向かう峠の難所になっており、実は私の母方の田舎が亀岡だったので、子供の頃に亀岡に車で帰郷する時には、その老ノ坂のトンネルで車がエンストした思い出が残っている。
また聞いた話では、老ノ坂峠には、酒呑童子の首を埋めたと伝えられる、首塚大明神が祀られているそうで、老ノ坂は大枝坂から来たとも言われ、大枝山と言う山もあるそうだ。
老ノ坂は、明智光秀がここで引き返して信長を討ちに本能寺に向かった場所として有名でもあり、和泉式部の娘の小式部内侍が詠んだ歌で百人一首にもある「大江山、いく野の道の遠ければ、まだふみもみず天の橋立」の大江山はこの大枝山だと言われている。
機会があれば、この老ノ坂も訪ねてみたいと思う。





太秦探訪記  byしらゆき


京都や関西の古代史を調べると秦氏の名前によく出くわす。
秦氏は五世紀の頃に朝鮮から日本に一族を率いて渡来した帰化氏族で養蚕・機織・染織などの高い技術を持ち日本に広めると共に、開発や建築にも多くの歴史資産を残している。
太秦と言えば秦氏に所縁の地名で、京都にある映画村を思い浮かべられるだろうが、私が現在住んでいる大阪の寝屋川市にも太秦の名があることからも、その活動範囲の広さが推測される。
京都の太秦周辺を散策して秦氏に所縁の史跡を歩いてみる事にした。
まずは、京都の京福電車、俗に嵐電と呼ばれる電車に乗り「帷子の辻」駅で降りる。
この帷子の辻と言う地名も死人に着せる経帷子を連想してしまうのは私だけだろうか。
この帷子の辻駅から南に向かって歩いて行くと、松竹の撮影所を越えた辺りの住宅街に囲まれてポツンと大きな石組みが剥き出しの「蛇塚古墳」が現れる。
元は京都でも最大級の前方後円墳なのだが盛り土は削り取られたのか、今では石室と石組みだけが残っている。
蛇塚の名前は、石室に蛇が群れていたから名付けられたそうである。
築造は6世紀辺りで秦氏の中でも有力な秦河勝の陵墓だと言う説もあるそうだが、いずれにしても秦氏の棟梁クラスの墳墓ではあるそうだ。
古墳の石室は崩れないように鉄骨で補強されていて、古墳の周りにはフェンスで取り囲まれている、また周辺は住宅が取り囲む中に古墳があるのは奇妙な感じだった。
そこを終えると、再び嵐電の駅に戻り、電車に乗って「蚕ノ社」駅で降りる。
ここは、蚕の社と言われる木島神社で有名なのだが、そこは後にして先に南に下って「天塚古墳」を目指す。
辺りが住宅街で道が入り込んでいたり行き止まりだったりで判り難いのだが、道を聞いてようやくたどり着けた。
この「天塚古墳」も蛇塚古墳に次ぐ大きさの前方後円墳なのだが、こちらは盛り土もそのままで山のようになっており、この古墳を利用して稲荷社になっており、石室にはお稲荷さんが祀られている不思議な古墳だ。
明治に発掘された時には鏡や馬具、刀などお埋葬品がでてきたそうである。
この古墳も秦氏の一族の墳墓だと言われている。
この古墳の石室は先に書いたようにお稲荷さんが祀られてるので入ることが出来るが、中は暗く、石組みの中を入っていくのはなんとなく不気味な物を感じた。
そこを出ると、駅に戻り、そこから北にある蚕の社の参道を通って蚕の社に向かう。
ここは、木島神社と言い、正式には木島坐天照御魂神社となるが、やはり秦氏が建立した神社で養蚕・機織から蚕の社と呼ばれるようになったそうだ。
この社の中には「元糺」の池と呼ばれる湧き水の池があり、その中には三角形を描くように三本の石柱を繋いで作られた三つ鳥居があり、その三角形の中心には組み石で神座が作られていて神秘的だ、こういう鳥居は他には珍しく、聖域のような厳格さが漂う。
残念ながら、近年になって湧き水は枯れてしまって、水はなくなり鳥居と神座が鎮座している。
蚕の社の前の道を西に向かうと太秦の広隆寺の横に出る。
広隆寺は603年に建てられた京都でも最古のお寺で、やはり秦氏の有力者の秦河勝が建立したお寺だ。
なにより、弥勒菩薩半跏思惟像があまりにも有名でご覧になった方も多いと思う。
秦河勝が聖徳太子から仏像を賜って建立したとも言われ、霊宝殿には、弥勒菩薩を始めとした多くの国宝や重文の仏像にまじり聖徳太子や秦河勝夫妻の像も安置されている。
この広隆寺を出て少し北に向かうと「大酒神社」と言う小さな神社がある。
大酒神社と聞いてお酒の神社かと思われると思うが、元は「大辟神社」と書いたそうで、やはり秦氏と強い繋がりの古社で秦氏の祖神とも言われている。
祭神は、秦の始皇帝・弓月王・秦酒公の三神で、中国を統一した秦の始皇帝を祭神にしている所が渡来人の秦氏らしい。
秦氏は秦の始皇帝の血を引く一族だそうで、356年に始皇帝の14代目に当たる功満王が兵乱を避け日本に渡来し、その後、372年に功満王の子息の弓月王が一族を率いて日本に来て帰化して秦氏として養蚕や機織、建築などの技術を伝えたそうだ。
その後、秦酒公が秦氏をまとめて、雄略天皇に絹などを献上し、うず高く積まれた絹の献上品を喜んだ天皇が「禹豆麻佐」(うずまさ)の名を貰ったとも伝えられている。
ちなみに、大辟神社が大酒神社に変わったのは酒公の名前にちなんでだそうだ。
今は小さな社だけの神社だが、広隆寺のお祭りと思われている「牛祭り」は本来はこの大酒神社のお祭りで、摩多羅神と言う神が牛に乗って鬼を祓う奇祭なのだが、摩多羅神と言う不思議な神もこの神社の祭神になるそうだ。
摩多羅神は天台系の秘仏で慈覚大師円仁が唐から持ち帰って比叡山に納めたのを、恵心がここに勧進したとも言われている。
最近では摩多羅神は普通の姿で描かれるが、都名所絵図とかの昔の様子では天狗を思わせる異形で描かれている。
道教系とかインド系とか、いろいろと説のある不思議な神のようだ。

こうして秦氏の史跡を歩いて調べてみたがいろいろと判らない事も多く、虚実の伝説に包まれている秦氏で、私が書いていることも、どこまで正しいか判らないと思う。
これからも、少し続いて調べて行きたいと思っている。






編集中









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